八那池発電所の建設
佐久地方での発電所建設は、明治の終わり頃から佐々木虎治(佐久穂町上畑)が意欲を示していました。そのきっかけは、長野電燈株式会社の花岡次郎氏や、新進気鋭の工学士である川村三郎氏の影響です。川村氏は京都帝国大学工学部の出身で、佐々木氏の姉が嫁いだ臼田町勝間の川村八郎元町長の弟でもありました。
佐々木氏は、海ノ口や海尻方面に発電所を建設する計画を立て、花岡氏や川村氏の協力を得て千曲川周辺を実地調査しました。その結果、理想的な場所として松原湖が目をつけられました。松原湖の水を八那池の沓うち場付近に流せば、十分な落差が得られ、水路も短くて済むと考えたのです。
しかし、松原地区に水の提供を求めた際、当時の松原の神官であった鷹野斉氏は「硫黄の含まれた松原湖の水で発電すれば、村が火事になる」と反対しました。当時は消火設備や消防体制が不十分で、火事は今よりもはるかに恐ろしい災害と考えられていたためです。鷹野氏自身、松原村の大火事を経験していたため、より一層慎重だったのです。また、当時は発電所や電気の有用性がまだ人々に十分理解されていなかったため、賛同を得るのは容易ではありませんでした。
そこで、佐々木氏たちは有力者を通じて村人を説得することにしました。馬越の中山武三郎氏などの協力も得て、徐々に松原や八那池の人々の賛同を取りつけていきました。これらの経緯は、佐々木氏の回想録にも記されています。
当初、北牧村長に福山田用水を使った八那池発電所の建設許可を求めたのは、佐久電気株式会社でした。この会社は花岡次郎氏、平賀の大井冨田氏、志賀の神津康平氏らが発起人となって設立されたものです。しかし後に、豊里区代表の北牧村長と正式に契約を結んだのは、花岡氏が取締役社長を務める長野電燈株式会社でした。
同社は1911年(明治44年)10月に八那池発電所の工事を開始し、翌年の1912年(大正元年)8月に完成させました。これは佐久地方で最初に完成した発電所であり、佐久地方における電力供給の始まりとなりました。
このページに関するお問い合わせ
- 電話
- 0267-92-2511
- FAX
- 0267-92-4335
- 電子メール
- kankouka(@)koumi-town.jp :(@)は半角 @ に置き換えて下さい。